「むやみに人を救おうとしてはいけない」
僕は半年前、1人のみならず、2人、3人も人を救おうとしてしまった。
当初は「救う」という気持ちは潜在的であったと思う。
その気持ちは「見守る」とか「祈る」という言葉で表現された。
人を救おうとするのはものすごいエネルギーが必要だ。
そして魂が磨り減らされる。
なにかしらその人を救おうという気持ちが芽生え始めると
その人との間に見知らぬうちに深い繋がりが出来てしまう。
これは意識的に行なう繋がりではなく
心の作用で繋がるものだ。
(これはカウンセリングに似ていると思う。)
その人を救おうと心が動き始めると
僕はその人と共に生きなければならない
心の中でその人とともに歩かなければならない。
そうしていろいろな荒波が心理的な作用として襲ってくる。
そして心と体はバランスを取って存在している。
そのどちらかが傾けば他方にも影響を及ぼす。
救う気持ちは心に変化を与え、体にも変化を与えた。
そしてこの半年、これらの変化は僕にいろいろな事を教えてくれた。
この苦しみを打ち明けられるようになったのは僕にとっての救いだ。
苦しみを内側へ内側へ押し込めていくと何も出来なくなってしまう。
苦しみを語った時に、少し笑みがこぼれた人もいた。
確かにその人の苦しみからすれば僕の苦しみなど何ともないと思ったのだろう。
その人は今でも苦しんでいる。
しかし、人の苦しみに重みなどない。
自分の苦しみと比較して人の苦しみを笑い飛ばすのは簡単だ。
そう言う人はまだ人の苦しみが分からない人だ。
そして自分の苦しみも無視しようとしている人だ。
だがそれは長くは続かない。
いつか均衡が崩れ心や体に変化が始まる。
そしてまたそれを少しでもやわらげようとしている僕がいる。
「むやみに人を救ってはいけない」
ただこの半年で学んだ事は多い。
自分の魂を削らずに人を救える事もある。
僕はその人に初めの一歩だけ歩ませてあげたい。
そういう事が出来るようになった自分が今ここにいる。
学んだ事は多かった。
「本気」とか「全力」とか「死ぬ気で」という言葉を教えてくれた。
今まで上の言葉は自分にとってうさんくさいものだった。
今分かる事はこれらの言葉は受動的に心に入って来るのではなく、
能動的に心から勝手に出てくるということ。
それには色々な経験や考えが必要で、
時間も必要だった。
「いつ死んでもいいように生きている」
こう言ったとき、否定した人もいた。
本当にそんな生き方が
「いつ死んでもいいように生きている」
ということなのか?と。
いつ死んでもいいように生きる事は
何も失敗を恐れて
石橋を叩いて
慎重に前に進み
すべて成功しながら生きる事じゃない。
そんな事は年をとってからすれば良い。
いろいろな失敗をして
後悔をして
学んで
苦しんで
考えて
また喜んで
悲しんで
こうやって少しずつ自分を創っていく生き方が
いつ死んでもいいように生きる事だ。
この途中で生命の糸がぷっつり切れても
そこに後悔は残らない。
「むやみに人を救おうとしてはいけない」
人を救える人には
それなりの力がある。